城郭編
城は、防御装置であり舞台装置であるTHE CASTLE
戦国の城を「石垣と天守の建物」だと思って観ていると、いちばん大事なところを見落とします。城の本体は建物ではなく地面の形です。どこを掘り、どこを盛り、どこに出入口を開けるか。その設計が城の性能を決めます。そしてもうひとつ、城は身分と格を目に見せるための舞台でもありました。この編は、外から中へ順番に歩いて入る構成にしています。
前提
城づくりは三つの工程に分かれる
この三語を知っておくと、城の話の解像度が一段上がります。大名家の役職名にもなっていて、「普請奉行」「作事奉行」という言い方をします。
外から中へ
縄張を歩いてみる
下は平山城を単純化した模式図です。実在の特定の城ではなく、要素を一枚に集めた見本と考えてください。図の各部分を押すと解説が出ます。
図の各部分を押す/タップすると、下に解説が出ます。
本丸
ほんまる
図:平山城の縄張模式図(本丸・二の丸・三の丸が同心に配置される輪郭式に近い形)
配置には型があります。本丸を中心に同心円状に囲む輪郭式、直線状に並べる連郭式、片側に寄せる梯郭式など。地形と防御思想で決まるもので、優劣の順位ではありません。
地面の技術
堀と土塁と石垣
堀の種類
石垣の積み方
石垣は加工度によって呼び分けられます。おおまかには時代が下るほど加工度が上がりますが、諸説厳密な年代順ではなく、同じ城の中でも場所によって使い分けられている点は注意してください。
| 名称 | 加工 | 見た目 | 主な時期の目安 |
|---|---|---|---|
| 野面積 | ほぼ無加工の自然石 | 隙間が多くごつごつ | 織豊期の初期。安土城など |
| 打込接 | 接合面を叩いて調整 | 隙間が小さい | 織豊期後半〜 |
| 切込接 | 方形に整形 | 目地が通り隙間がない | 江戸期に主流後世 |
石垣の角の部分で、長い石と短い石を交互に噛ませて積む技法を算木積(さんぎづみ)といいます。角は石垣の最弱点なので、ここが整っているかどうかで築造技術の水準がだいたい読めます。また、近江の穴太(あのう)を拠点とした石工集団穴太衆が織豊期の石垣普請に関わったとされます。
郡山城のさかさ地蔵
秀長が入った大和郡山城の石垣には、石材が足りず墓石や石仏が転用されていることがよく知られています(転用石)。逆さに積まれた地蔵は今も見られます。信仰より工期を優先せざるをえないほど、当時の築城が急ぎの事業だったことを物語る遺構です。
象徴
天守は住むための建物ではない
天守はしばしば「城主の住まい」と誤解されますが、日常生活は御殿で営まれます。天守の役割は物見と、なにより遠くから見えることでした。領民にも、他国の使者にも、城主の力を一目で伝える装置です。
安土城について。信長の安土城は史料上「天主」と書かれます。内部については『信長公記』などの記述と後世の指図をもとに複数の復元案が提示されていますが、諸説決着していません。ドラマや観光施設で見る安土城内部は、あくまで有力な復元案のひとつです。
城の内部
御殿の中は、座る位置が身分そのもの
謁見の場面を観るとき、部屋の構造が分かっていると情報量が変わります。城の御殿は大きく三つの領域に分かれます。
| 領域 | 役割 | 主な部屋 |
|---|---|---|
| 表(おもて) | 公的空間。家臣や他家の使者と会う | 遠侍、大広間、書院 |
| 中奥(なかおく) | 城主の執務と日常 | 座敷、御用の間 |
| 奥(おく) | 家族・女性の生活空間 | 奥向きの各室 |
書院造の四点セット
格式ある座敷は、次の四つで構成されます。これは装飾ではなく、誰が上位かを空間で宣言する装置です。
画面の見どころ
謁見の場面では、段差・座る距離・扇の位置・視線の高さを見てください。一段下がって斜めに控えているのか、対等に正対しているのか。同じ「会う」でも、身分関係の表現が全く違います。秀長のような取次役は、しばしば上段と下段の中間に位置します。それが調整役という職掌の、空間的な表現です。
五十年の変化
山の上から、平地へ降りてくる
秀長の生涯とほぼ重なる期間に、城のかたちは大きく変わります。この流れを頭に入れておくと、ドラマの前半と後半で城の見た目が変わることに意味を感じられます。
| 段階 | 立地 | ねらい | 時期の目安 |
|---|---|---|---|
| 山城 | 険しい山頂・尾根 | とにかく守る。堀切と竪堀が主役 | 戦国前半まで広く |
| 平山城 | 平地に接する丘陵 | 守りと、城下町の統治を両立 | 織豊期に増える |
| 平城 | 平地 | 経済と流通の掌握。水堀で守る | 織豊期後半〜江戸期 |
織豊期の城には、石垣・瓦・礎石建物という共通の特徴があり、これらをそなえた城を研究上「織豊系城郭」と呼びます。信長・秀吉に従った大名が各地で同じ様式の城を築いたことは、技術の伝播であると同時に、支配の可視化でもありました。城を見れば誰の系列かが分かるからです。
一国一城令は1615年。「一国に城はひとつ」は江戸幕府の政策であって、戦国期の原則ではありません。戦国の大名は本城と多数の支城を網の目のように持つのが普通で、支城には城代が置かれました。城主と城代は違います。城代は預かって管理する立場です。
