食編
米と味噌と塩の世界に、南蛮菓子が入ってくるWHAT THEY ATE
戦国の食卓は、想像よりずっと質素で、想像よりずっと動きがあります。基本は米と塩と味噌。しかしこの五十年のあいだに、食事の回数が増え、木綿とともに新しい作物が広まり、南蛮船が砂糖菓子を運んできます。食べ物の変化は、経済と外交の変化の写し絵です。
回数
一日二食から、三食へ
中世の日本では、一日二食が基本でした。それが諸説戦国から近世初期にかけて、三食へ移っていったと考えられています。理由として挙げられるのは、灯りの改善で活動時間が延びたこと、そして労働量の増大です。城の普請、長期の遠征、鉱山の開発。働く量が増えれば、食べる回数も増えるという単純な理屈です。
ただし一律ではありません。階層・地域・時期によってばらつきが大きく、「戦国時代は三食だった」とも「二食だった」とも言い切れません。ドラマで食事の場面を見るときは、それが誰の、どの時期の食卓かを気にしてみてください。
主食
白い飯は、上のほうの人のもの
かたち
膳の上には、決まった置き場所がある
改まった食事は本膳料理の形式をとります。室町期に武家の饗応の作法として整えられたもので、一の膳・二の膳・三の膳と膳を並べていきます。現代でもよく言う「一汁三菜」は、この一の膳の基本形です。
図:一汁三菜(本膳の基本形)の配置。手前左に飯、手前右に汁というのが基本で、これは現代の和食にもそのまま続いています。
大名の饗応では膳の数が増え、七五三の膳といった大掛かりな形式もとられました。ここで重要なのは、味ではなく格式です。何の膳をいくつ出すかは、相手をどう遇するかの表明であり、外交そのものでした。実際に全部食べきることは前提とされておらず、見せるための料理も多く含まれます。
饗応は査定される
接待の場面を観るときは、「もてなす側が何を出したか」と同時に「もてなされる側がどう受け取ったか」を見てください。膳の数が想定より少なければ侮辱になり、多すぎれば分不相応の追従になる。秀長のような調整役の仕事の相当部分は、この加減の設計だったはずです。
味つけ
醤油はまだ主役ではない
おかず
建前の肉食忌避と、現実
魚、鳥、豆腐、納豆、漬物、山菜、海藻。これが日常のおかずの中心です。汁と漬物だけという日も珍しくありません。
四つ足の獣肉は、仏教的な忌避から建前上は避けられていました。ただし建前と実態は違います。猪や鹿は「薬喰い」といった名目で食べられ、山間部ではむしろ日常的な食料でした。宣教師の記録には、日本人が獣肉を口にする場面や、逆に牛肉を食べる南蛮人を日本人が奇異に見た記述が残ります。推定宣教師の記録は貴重な資料ですが、外部からの観察であることは差し引いて読む必要があります。
戦場
兵糧という、いちばん重い荷物
秀長の主戦場は、実のところ兵站でした。ここを理解しておくと、彼の仕事の重さが見えてきます。
一人一日、米五合という目安
推定兵一人あたり一日五合、という数字が兵糧計算の目安としてよく使われます。一万の軍勢なら一日で五十石。ひと月で千五百石。これを運び、蓄え、途切れさせない。それが兵站の仕事です。
数字が二つある理由。「一石は一人が一年に食べる米の量」という説明も広く知られています。一石は千合ですから、こちらは一日約二・七合の計算になり、五合とは倍近い開きがあります。矛盾ではありません。前者は重労働の戦時支給量、後者は平時の目安であり、しかも実際には米だけを食べているわけではないからです。数字を見たら「誰の、どんな状況の数字か」を必ず確かめる——これは戦国の数値を扱うときの基本作法です。
酒と南蛮
濁った酒と、砂糖菓子
日常の酒は濁酒(どぶろく)。澄んだ酒は手間がかかる高級品で、なかでも麹米・掛米ともに精白した諸白(もろはく)は最上級とされ、奈良の南都諸白が名高い銘柄でした。酒は儀礼の道具でもあり、盃を交わすことは契約に近い意味を持ちます。
そして南蛮船が運んできたもの。カステラ、金平糖、ボーロ、アルヘイトウ——いずれも砂糖菓子です。砂糖が貴重品だった日本において、これらは味覚の驚きであると同時に、外交の贈答品でした。宣教師が織田信長にガラス容器入りの金平糖を献上したという話はよく知られています。諸説
食べ物は情報である
南蛮菓子が画面に出てきたら、それは「誰が南蛮と繋がっているか」の表示です。同じように、昆布が出れば北の海運、砂糖が出れば南の貿易。食卓に載っているものは、その家がどの流通に手を伸ばしているかの地図として読めます。
